晴人を何とか復学させようと躍起になっていた凛子は、何度か取り乱して怒り、怒鳴り、脅し、泣き喚き、宥めすかし、放置し、理解を示し、そうした流れを繰り返しながら、晴人が六年生に上がる頃にはまるで別人のように変わっていた。
表情や眼差し、佇まいも大きく変わった。
むしろ学校へ行かないという選択をした晴人を肯定し、これまで自分には見えていなかった世界に気付いたと、これまでいかに自分が何も考えず、他人の物差しで生きてきたかを思い知ったと言った。
凛子の知人の、晴人と同じ歳ぐらいの息子さんが不登校を苦に自死したことも大きかったと思うが、何かの宗教にでもハマったかのような、凛子のそのあまりの変貌ぶりに、晴人は少し狂気を感じていた。
しかし、それから少しずつ(多分ほとんど初めて)晴人は凛子と心を通わせながら、互いに本音で会話をするようになっていった。
「あのさ、晴人は、どうして生きてるの?」
ある日突然、凛子はそんな風に切り出した。
「は?何でって?それどういう意味?」
晴人は率直に言って訳が分からなかった。
母親が産んだから。
息して、食べて、寝てるから。
死んでないから。
そんなようなことが思い浮かんだ。
「朝目が覚めて、生きているから。自殺なんて考えちゃいけないことだし、別に死にたいと思ったこともないけど?」
正直に言えば、生きてる意味があるのか?死んだ方がマシ、などいう考えがほんの一瞬とはいえ頭をよぎったことが一度もないとは言えない。でも、ほんの一瞬のことで、それは良くない考えだからと、すぐにかき消したのだった。
「母さんはさ、これまで本当になーんにも考えないで生きてきたんだなーって。目の前のこととか、身の回りのこととか、生きるのが当たり前で、自力で生活するためにお金が必要で、お金を稼ぐためには学校に行くのが普通で、少しでも良い学校を目指して勉強して、少しでも良い会社に入って働いて、給料をもらって、タイミング良くちょうど良い人と出会って結婚して、子どもが産まれて、周りの様子を見ながら働いてお金を貯めて、車を買ったり家を買ったりして、子どもの将来の教育費とか、いろんなローンに囲まれて。なんて言うか、それが生活、それが人生だって。別にハッキリ考えていた訳じゃないけど、普通にそういうもので、それが生活そのものって感じで生きてきたんだよね。」
「そういうものでしょ?」
と、晴人は、それが良いとか悪いとか、そういう価値観の問題じゃなくて、ただそういうものだと思って答えた。でも、心の中にはずっとそんな人生に違和感を感じていたし、母の話しを聞きながら改めて思い浮かべてみると、初めは漠然と、やがてはっきりと、そんな夢も希望もない生活に嫌悪感を感じた。
「晴人が学校を休むようになって、初めは体調不良だから仕方ないって、あんまり深く考えてなかったけど、だんだん休みが何日も続くようになって、そのうちに体調に関係なく学校に行きたくないって言い出した。行きたいとか行きたくないとか、そういう次元の話じゃないでしょ?と思ったし、正直、よく意味が分からなかった。不登校?まさか、うちの子が?いじめにでも遭っていたんだろうか?なんで?最初はそういうことばかりが頭に浮かんで、とにかく原因を突き止めなければって思ってた。」
「うん。」
「で、次に、母親としての責任とか、自分の育て方が悪かったのかとか、とにかく自分が出来損ないで母親失格だと思った。」
「・・・・・」
「周りがどう思うだろう?じいじばあばは何て言うだろう。恥ずかしいし、怖かった。義務教育の義務を果たさないとどうなるのか?教育を受けさせる義務は?正直、学校に行きたくないなんて甘えだと思ったし、そんなことじゃこの先、生きていけないと思った。だって、生きるためにはお金が必要だし、お金を稼ぐためには働かなきゃいけない。何か特別な才能でもない限り、好きなことをしてお金を稼ぐことなんてできないし、それなりに続けられる仕事を見つけて毎日働くしかない。このまま学校に行かないで引きこもって、社会に出て働けなかったら?それこそ何か悪いことをしでかすかもしれないし、母さんたちが一生面倒見ていくのか?母さんたちが死んだらどうなる?そんなことばかり考えてたんだよね。」
「うん。」
実際、凛子は何度かそのようなことを言って責め立てたことがあったし、その度に、晴人はすべてが暗く重たく感じられ、何も考えられなくなって、ただただ絶望感でいっぱいになっていた。
少し落ち着くと、晴人は生きてる意味をうっすらと考えるともなしに考えたりもしたけど、やっぱり意味なんて、その時にはそれ以上のことは何も思い浮かばなかった。
ただ、生きてるから生きてる。
当時の晴人は為す術もない境遇に打ちひしがれていたが、どのみち学校を休んで家にいてもまったく気が休まらず、どこにも晴人の居場所はなかった。母親との日々の応酬に辟易し、たとえ何も言われなくても感じるプレッシャーや空気感にも疲れ果てたある日、晴人は気力をなくし、もう行くしかない、別にただ行けばいい、何の意味も感じられなくても、ただ、とにかく学校に行きさえすれば何かが収まるんだろうと、ただ諦めて、朝から学校へ向かった。心を無にして何とか玄関を出た。一歩一歩、学校へ向かう足取りは、自分のものとは思えないほど重く、なかなか前に進んでいかなかった。そして、気付くと、晴人は通学路を引き返して、自宅に戻っていた。
玄関に呆然と立ち尽くす晴人の姿を見て、凛子は一瞬、何かを言おうとしたが、晴人の表情に目を留めて凍り付き、黙って家の中に迎え入れた。そして、その日から、凛子は晴人を一切、学校へ行かせようとはしなかった。
「先生と話し合ったり、スクールカウンセラーに相談したり、心療内科を受診したり、学校に無理やり送り届けたりもしたけど、晴人のあの時の顔、まるで目の輝きがなくて、生気を失ったような表情を見たときに、これは間違っているって思った。このままだとこの子を失ってしまうって思った。無理だって諦めじゃなくて、行かせるべきじゃないんだって感じたんだよね。」
と凛子は言った。
その日から少しずつではあったが、晴人は空虚なプレッシャーから解放されて家の中に居場所を見い出すようになった。成長と共に社会に感じる違和感は大きくなり、全体像を捉えて俯瞰して見れば、まったく道理に合わない、そんな社会に迎合する必要性など、微塵も感じられなくなっていった。
しかし、凛子の急激な変化に初めは本当に驚きを隠せなかった。
何か裏があるのかもしれないと勘繰り、いつまたあのプレッシャーが蘇るかもしれないと、晴人はある部分では気を許せずにいた。
しかし凛子は一向に元の母に戻る気配がなかった。
そして、これまで以上に読書に耽るようになった。
晴人の小児喘息をきっかけに、健康オタクとなった凛子は、
さまざまな生活改善によって自分の花粉症や原因不明の不調を改善していたが、
断食や粗食や漢方薬や、その他のあらゆる凛子に有効だった手立ては、ほとんどがまだ幼い晴人には不相応だった。そのためしばらくの間、飲食物の工夫や水泳などのスポーツと、医者が処方する薬の併用を続けていた。
それまで、凛子の書棚は健康系の書籍が大半を占めていたが、
まるで別人のようになってからは、さまざまなジャンルの本を読み始めた。
そして、晴人の好きな漫画やアニメも一緒に楽しむようにもなった。
ある程度成長すると凛子は晴人に薬の服用を止めさせた。料理やおやつなどの手作りメニューを充実させ、高品質で香り豊かなエッセンシャルオイルや運動器具を揃えて、晴人が楽しみながら続けられる範囲の健康ルーティンを組んだ。
驚いたことに、薬を止めてから一度たりとも喘息の発作は起こらなかったが、今度は皮膚の湿疹が出始めた。肘や膝の裏側と、口の周り、背中は特に酷かった。大人の大きめの手のひらよりも広い範囲が、変色してジュクジュクしていた。血が滲み、Tシャツが張り付き、脱ぐ度に痛みが襲った。
凛子は、数年間服用し続けた薬の蓄積と、それらを押し出す身体の働きや力の弱まりが原因だと晴人に教えた。痒みと、ジュクジュク、カサカサを繰り返した。一時期は眠れないほどの痒みと、血だらけの寝具に晴人はイライラし、本当に嫌気が差していた。晴人の耐えかねる様子を見て、凛子は何度か晴人を皮膚科に連れて行った。
皮膚科に処方された薬はとてもよく効き、痒みは嘘のように治まった。
「これで一時的に痒みは凌げるかもしれない。でもね、その分、すべて綺麗に治るまでに時間がかかるようになるよ。」
と凛子は言った。
母の言うことが信じられなかったというよりも、晴人はお医者さんはこういう症状を治すのが仕事だと思っていたし、何より、幼い頃の苦くて不味い漢方薬や味気ない食事の記憶は晴人のトラウマになっていた。何とか処方された塗り薬で治ることを願い、毎日丁寧に塗り続けていた。
痒みが治まって掻きむしるようなこともなくなると、皮膚の症状は落ち着いた。これで治ったと思いきや、薬を塗るのを止めて数日するとまた、痒みが戻ってきた。凛子は晴人の判断を見守っていた。一連の流れを何度か繰り返すうちに、晴人は薬を塗るのを止めた。
それからは、精製水と少量の保湿剤を混ぜた手作りの保湿液と、エッセンシャルオイルやアロエやシアバターで辛抱強く保湿を続けた。温冷シャワーも取り入れて、しばらくするとあんなに酷かった背中が嘘のように綺麗に治った。
「毎日毎日、ただ『生活』に忙しくて、見ているつもりが何も見えていなかった。聞いているつもりが、何も聞こえていなかった。分かったつもりで、なーんにも分かってなかった。大切にしているつもりが、何が一番大切なことなのか、本当に大切にするってことがどういうことなのか、まったく何も分かってなかった。」
と、凛子は涙目になりながら言った。
「時間は戻せないし、言った事ややった事は取り消すことができない。ああすれば良かった、こうすれば良かった、っていうのは、後になってじっくり振り返らない限り巡ってこない。本当の根っこが見えて、本当の悔恨にたどり着くには、自分に向き合い、深く内省する必要がある。覚悟を持って取り返しのつかない後悔を受け入れることで、これまですっぽりと覆われて隠れていたものが少しずつ見えるようになってくる。晴人は、その深い優しさと慈愛の心で、人を傷つけないように当たり障りない理由を一生懸命考えて、時には自分を押し殺そうとして、苦しんでいたんだよね。本当に、本当にごめんね。」
凛子は涙ながらに謝った。何かを自分に言い聞かせるような物言いでもあった。
はっきりと言葉にした訳ではないけれど、母は本当のことに気付いたのだと思った。
晴人も上手くは言い表せないいろいろなつながりや心の通い合いを感じ、気付くと溢れ出た涙が晴人の頬をつたっていた。
それから凛子は、何かを強く心に決めたようだった。
そして度々、時には涙を堪えながら、不可解なことを語るようになった。
理解不能で、意味不明な話しが増えていったが、母は真剣に語っていた。
何かを真剣に話していた、しかし、それらは晴人の理解と想像を絶するものだったという印象をうっすらと残しだけで、晴人はどういう訳か翌日にはいつもその内容を思い出せないでいた。
漫画やアニメにまつわる会話、食事や日常のことは普通に覚えていた。
しかし、そんな日々が何年間か続く中で確実に、晴人の心身は受け取る準備を整えていたのだった。
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