小学生の頃は学校全員友だち、中学校の途中、高校の途中にも、今思い返せば何か周りとの乖離を感じていたような、噛み合わないような居心地悪さがあったが、大学、社会人はまた明るく愉しみ、朝までカラオケや遊び、飲み歩くこともザラだった。
DV、三男が0歳の時に離婚を経験し、シングルとしてフルタイム勤務、子どもたちのアトピー、三男が小学2年生の頃から不登校がちになり、長男、次男にも波及したことで、これまで当たり前と思っていたいわゆる常識のようなものへの疑問がどんどん沸き起こってきた。
小林正観さん、斉藤一人さん、五感と六感、三次元と五次元、霊性と肉体でバランスよく愉しむことを教えてくれた恩師を経て、これまでとはまったく異なる思考や感情を持つようになった。いつしか毎日飲んでいた飲酒の習慣もなくなった。
4年ほど前から急激に人とのコミュニケーションが苦手になり、コロナ騒動の影響からパニック障害、うつ病などと診断を受けて退職。
これまで以上に既成概念や固定観念に距離を置いた環境の中で、折り良く巡り合う発信者や本や目には見えない何かを通じて、いよいよ子どもたちにもまるで別人のようだと言われるようになった。
あれだけイライラして、おっかない形相で脅迫めいたことまでして何とか学校へ行かせようと四苦八苦していた母が、突然、「行きたくなければ行かなくていいし、行きたいと思ったら行ったらいい。私は正直今の学校は生きる上で大切なことを学べる場ではないし、行く必要ないと思っているけど、行きたいと思う何かがある人にとっては行く意義があるかもしれない。」などと言い出したのだから。
今回のお話会もそんな何かのお取り計らいで、人混みが大の苦手にも関わらず突如参加したい気持ちに駆られた。久々に多くの人が集まる場、しかも東京!満員電車!会場では間もなく訪れるとされる経済崩壊や(経済崩壊どころか大峠なる大厄災?)、今秋始まるわく珍などへの不安や恐怖が漫然とあり、そこかしこでは我関せず我善し意識の人、魑魅魍魎、彷徨いものが蔓延しており、帰るころには首、肩、膝〜足首当たりが重苦しい。
『死んだら終わり』だと思い込まされ、数十年間の生涯の中で、より良い政治や教育や経済状況を望むように仕向けられ、目で見えるもののみを信じるように教え込まれ、カビのようにビッシリと根を張っている既成概念や常識、権威や権力への盲信など、これまでの自分を疑い、否定することはとても難しいから、多くの人はそうしたことを気付かせようとするものは見て見ぬふり、聞こえぬふりをして済ませてしまう。
私たちは100%死ぬし、死後の世界があるのかないのかは死ななければ分からない。死んだら終わりだから一度きりの人生を悔いなく楽しみたい。そのためには人を蹴落としてでも、人より多くの金銭を稼いで、人より大きな家、良い車や高価なブランド品、快楽を得たいと思うのも自由だし、先祖代々子々孫々森羅万象、延々と繋がる魂や地球や宇宙の一部として今世でどこまで成長し、全体の進化や発展にどれだけ貢献できるかという視点で生きるのも自由。
何が本当かどうかよりも、要はどちらを選ぶか。
しかし、魑魅魍魎、彷徨いものがいるのも事実。これは死んだら終わりという思い込みの中で今世を悔いなく楽しみたいと思いながら、さまざまな現実に追われて充実感や幸せを味わえないままの心残りや、誰かや何かへの執着、死んだ(肉体が朽ちた)後も霊体として続いている意識への戸惑い、我善ばかりだったために霊性が下がり、より低い次元へ堕ちることへの恨めしさなどによる。どんな残念にせよ、自分の霊性が子々孫々や先祖代々、森羅万象にまで影響するということが分かったからこそのものであるから、すべての繋がりのために共に心を尽くしましょうと、繋がりの一部として力をお貸しくださいと念を送ると軽やかになって、心を寄せて力を貸してくれるようになる。
もちろん、肉体や五感で喜びを味わえる三次元を楽しむことも大切。ただ、自分(や自分の周り)だけ良ければそれで良いという我善の喜びなのか、あなたは私という自他一体の心で他の幸せをも喜べるのか、心の在り方一つで今世の魂の成長度合いはまったく異なる。
せっかく肉体や五感を味わえる三次元地球に生まれたからには、美味しいものを食べて、美しいものを見たり聴いたり、肉体的な喜びを味わうことも大切で、でもいつまでもそこに執着して留まるのではなくて、与えられたもの与えられないものに心から感謝して、今此処が既に足るを知り、次のステップである他の幸せや喜びを自分のことのように喜べるような方向にシフトチェンジをしていく必要がある。しかも有名な誰かや何かがそう言うからではなくて、自分の真心でそう感じることが必要不可欠。
こうした集まりに参加することで、その主催者や話し手の方についていけば大丈夫だ、安心だ、などという感覚ではまだまだで、自分の内面に向き合い、さまざまな事象に反応し湧き起こる感情に向き合い、憎しみや妬み嫉み、イライラ、咎めの心など御法度の心がどこからきているものなのか、自分の想念を観察し、腑に落ちて同じような御法度の心を起こさないようにコントロールできるようになることが大切。単純に御法度の心が起きたから自分はまだまだだと卑下したり、起きた感情を無理やり押し戻そうとするのではなくて、それぞれの感情の機微を観察してクセをつかむこと。
見える、見えないなんていうのはどうでも良くて、なぜなら私たちは音や電波や空気など、目に見えないものを既に当たり前に活用しているのだから。右左に忙しい報道や四方八方から四六時中うるさい情報に振り回されるのをやめて、内観を繰り返して霊主体従という本来の姿に立ち戻ると、死後の世界はないという、死んだら終わりという前提でお金や権力を集めるために作り込まれた現行のシステムでは、生きている間は働いて税金を納め、さらに衣食住にお金を払い、食糧や流行り病などに細工をして適度に医療や薬にお金を使うように仕向け、死んだら葬儀代やお墓代など死までも金儲けの道具にされていることがくっきりと浮かび上がって見えてくる。
そうした虚構のシステムにいつまでもぶら下がり、歯車となって助長している自分に気づいた時に、一人一人すべての繋がりを思い出した時に、残り僅かな今世で、それでも今と同じ毎日を続けたいか?本当の自分はどう在りたいか?全体はどう在ってほしいのか?
すべては繋がっているからそれぞれの思い描く想念はその集合意識に織り込まれる。これまでは支配者とされる側が金や権力で一度に大多数の不安や恐怖を煽ることで思い通りにしてきた。でも長い年月の中、これ以上そのような行いを看過できないとする存在の働きかけによって、そうした仕組みに気付き、目覚めた人が増えたことで、支配者側の力は急速に弱まっている。つまり、大多数の想念の力が目に見える事象を引き起こしていることに、さらに大勢の人々が気付くことによって、これから起きるとされる大厄災などの事象も変わるということ。
お三方の質疑応答のコーナーでは何か質問をと思い捲ねたが、話の内容があまりにもすんなりと腑に落ちたもので、常の想念の答え合わせのような感じになり、質問はできず仕舞いだった。
結局、御魂磨き、洗心しかなく、それぞれが内観して、湧き起こる御法度の心に向き合ってよく観察していくしかないのだ。良いも悪いもなく、目に見えるものしか信じて捉えることのできない人間にとって、すべての事象はそれぞれが内観して本来の存在に気付くために起こっているのであり、洗心をしているうちに視点は自然と変わってくるのである。
水(雨)や空気、太陽はただで与えられ、それぞれ必要なものは余程不条理でなければ大抵は与えられる。
必ず訪れる『肉体の死』まで生きている生かされていることに感謝し、肉体五感ある生命としての自分を愉しみながら、自他一体の心を取り戻して、他の喜びや幸せのために互いが生きれば奪い合いなどは起こり得ず、与え合い、分かち合い、補い合い、助け合い、高め合える、霊性の上がった存在になれるのである。
何はともあれ、こうしたお話会などに参加するのは初めてでしたが、思った以上に楽しかったです。はっしーさん、石井数俊さん、近藤宏次郎さん、スタッフの皆様、こうした機会にお取り計らいくださったすべてに感謝です。本当にありがとうございました。