Vol.12 良知良能

世の中には本当に毎日毎日、心がどっしりと重たくなるような暗い、悲しい事件や事故が起きている。被害者や加害者、原因不明、因果関係不明、本当だか嘘だか分からないけどどれもこれも、あらゆるしがらみや利権を追い求めるつながりの上で起きている。人間は誰一人として単独で存在していない。みんな誰かに、どこかに、何かにつながっている。だから、掘り下げていけば、そこにはさまざまな背景があり、さまざまな感情や思考が渦巻いている。

でも、統制されている情報の中でいくら探っても、本当の答えに辿り着くことは不可能かもしれない。もみ消しやすり替え、ミスリードによって大勢の感情は揺さぶられ、そこらじゅうに遍く波紋が広がっている。

人々は機械化しつつある。多くの人が自分の殻に篭りながらそうした波紋に触れることなく、本心や本音を自分にさえも覆い隠し、仮面を被って社会生活を送っている。一日の出来事をただ出来事として短くまとめられた記事を読んで時事をインプットする。事件や事故の背景や人々の心の機微を読み解く力はどんどん失われている。

だけど、むしろ情報を追い求めて時間を浪費し、感情や思考を右往左往することこそが、支配者の思う壺なのかもしれない。彼らの本当の目的は知り得ないし、人間の生きる意味はそこにはない。本当はただ、それぞれが本心で惹きつけられる事象に感じ入り、互いの智慧を分かち合い、それぞれの魂の目的とする叡智の獲得に結びつくものかどうかに意識を向けていれば良いのかもしれない。

晴人は思い浮かんできた想念をみんなに共有するために話し始めた。

「上手く言えないけれど、慈愛や善意による境界はあいまいに、闇に渦巻く感情には確固たる境界を持つべきなのかもしれない。機械化して心を失っては本末転倒だし、匿名のSNSだって、人の心の機微を汲み取ることができない機械化した人々の無責任な発言で溢れかえっている。きっと、みんな言葉には人の心を抉る力があることを忘れてしまっているんだ。たとえ匿名であっても、発言には責任が伴うという、慈愛や善意に基づく倫理観を取り戻さなきゃいけない。かといって、起きてしまった出来事に怒りや悲しみや恐怖の感情ばかりを激らせてもどうにもならない。常に心の声に耳を傾けながら冷静に、できる限り奥底を見通すようにしてそれぞれの事象に向き合う必要があるんだ。そうしていると、世の中がどれだけ支配者の強欲に埋もれていて、支配者の強欲や利権のために多くの人が犠牲になり、彼らの強欲や利権に群がる人々によってさらなる悲劇が生み出されているかがよく分かる。支配者の行き過ぎた強欲によって、自然や資源を浪費しながら、生命を奪いながら、科学は不要に発展し続けている。僕たちにとって科学は、もう十分過ぎるほどに足りている。未来の地球や、そこで暮らす人々のためにも、不要な科学に気付いて削ぎ落とし、慈愛や善意に基づいてバランスを取りながら、自然や地球そのものとの調和を考えていかなけばならないんだ。」

「それに、多くの人が他人の意見に振り回されず、自分の感情や考えによって慈愛や善意の方を選択して自己信頼を積み上げていけば、支配者だってきっともう、これ以上人々を操ることができなくなるはずなんだから。」

「僕たちは自由だ。だからこそ、その選択に責任を持って、もっともっと広く、大きなつながりを感じながら、多くの存在の平和や幸福のために慈愛や善意に基づく調和を選んでいかなければならない。もちろんそうした道を選ぶのも、このまま社会に流されて生きるのも、社会の仕組みに気付いても見て見ぬふりをするのも、結末が分かっていてもどうしようもないと何もせずただ生きているから生きるのも、すべて自由なんだけど・・・・」

そうしてきっと、最終的には人々の分断は避けられないのかもしれない・・・・

晴人はトライブでの生活の中で、心と頭が不思議なほど一つにまとまって、研ぎ澄まされていくように感じていた。

四十四歳の藤堂仁は、不条理で不親切な社会の中を何年も彷徨っていた。職を失い、家族と別れ、容赦無く押し寄せる請求書は山積みで、彼の心は絶望の淵に沈み込んでいた。人生には何の目的もなく、夢も希望も枯れ果て、ただ朝生きて目が覚めるから生きていた。

ある晴れた夜、いよいよ仁は覚悟を決めて行く当てもないまま、ただ死に場所を求めて彷徨っていた。仁のどんよりとした心とは裏腹に珍しく夜空は澄み渡り、満天の星々が煌めいていた。

どこをどう歩いているのか分からないまま、気付けばこれまで訪れたことのない公園に辿り着いた。奥の方の木立ちの中に、ふと古風でのどかな光景が見えた気がして、仁は気を惹かれるままに木立ちに近づいて行った。

グニャリ。

仁は星明かりに照らされた夜の公園にいたはずが、いつのまにか陽の光が降り注ぐ牧歌的で温かみのある広場に立っていた。

「こんにちは。道に迷ったの?」

聡明さと親しみやすさを兼ね備えた善良そうな女性が仁に話しかけた。

「迷子か、そう、ずっと迷子だったのかもしれない。もう自分の居場所が分からないんだ。」

女性の思いやり溢れる雰囲気に、仁は躊躇いながらもそう答えた。

女性はサライ・トトと名乗ると、相変わらずの鋭敏さで仁の中の何か特別なものを感じ取り、このまま話を聞かせて欲しいと頼んだ。サライは太古の森を思わせる大木に仁を案内した。

「この大木はヴェルデと云うのよ。」

二人は清々しさと柔らかな癒しを放つヴェルデの傍らにあったベンチに腰を下ろした。仁は自然豊かで解放的な広場の優しさに打ち解け始めると、ポツリポツリと自分のことを話し始めた。

「僕は昔、シェフをしていたんだ。高級フレンチレストランで何年も料理をしていたんだ。でも、時代や疫病や、何処かの誰かの思惑かもしれない。いや、誰のせいにしたって仕方ない。そんなのは意味がない。とにかく、僕は仕事を失い、家族と別れ、とても払いきれない請求書に囲まれて、もう生きる気力を無くしてしまったんだ。」

「シェフだって?何てこった!ヤッホー!」

サライと男のやり取りに耳を澄ましていた琉雅が思わず感嘆の声を上げた。

「コミュニティ・ダイニングには料理人が不足しているんだ。食材の旨みを活かしたシンプルな味わいの料理も美味いし、大いなる自然の恵みには深く感謝しているけど、正直、物足りなさを感じることがあるから、料理人は大歓迎だよ!」

ナユタも琉雅並みに興奮して、瞳をキラキラさせながら仁をしげしげと眺めていた。

「ちょうどもうすぐ昼ごはんよ。私たち畑仕事を終えてお腹が空いているの。ほら、私たちが心を込めて育てた野菜や食材がこんなにあるわ。さっそく何か作って。」

ナユタはそれはそれは嬉しそうな弾んだ声で仁に掛け合った。

仁は思いもよらぬ歓迎に初めは半信半疑だったが、自分の内面の奥の方から湧き起こる久しぶりの心躍る感情に戸惑いながらも、腕を振るうことを決意してキッチンに立った。トライブの豊かな作物はナユタの言った通り、丹精込めて大切に育てられたことが伝わってくるような鮮やかな色合いでずっしりした重みが感じられた。まもなく、仁の繊細なナイフ捌きが見る者を魅了した。濃厚な黄金色のバターでジュージューと焼かれたニンニクとエシャロットの香りはみんなの五感を刺激し、その深い味わいを想像させた。摘みたてのハーブが芳香を放ち、根菜の土の甘みと混ざり合う。ベビーリーフにトマト、ぱりっとしたレタスは手際よくちょうど良い加減に和えられた。さらに、愛情たっぷりに育てられた放し飼いのチキンはニンニクや新鮮なローズマリー、そしてレモンでマリネされ、オーブンで完璧にローストされた。ローストしたニンジンとパースニップは甘く完璧にキャラメリゼされ、蒸したインゲンは鮮やかな色合いとほのかなシャキシャキ感を添えている。クリーミーなマッシュポテトが、皮にこんがりと焼き色をつけた香ばしいローストチキンと心地良いバランスを保ちながら、皿を完成させた。

まるで魔法のようだった。シンプルながらも素材の味わいを最大限に引き出した料理の立ち上る香気と、温かみのあるパンの香りのハーモニーに、トライブの人々が吸い寄せられるように集まってきた。

仁によって不思議な息吹を吹き込まれた新鮮な野菜たちはいつも以上に色鮮やかで、驚くほどの旨味で互いを引き立て合っていた。肉を食さないサライと右京は、野菜本来の素材の甘みが活かされ調和した味わいと、子気味良い絶妙な食感を楽しんでいた。

黄金色に焼けたパリパリの皮にナイフを入れると、柔らかい肉から香ばしい肉汁が溢れ出し、一口ごとにしっとりとした食感と豊かな自然の風味が舌を喜ばせた。次の一口への期待を裏切らない極上の味覚の数々に、晴人もマナスも夢見心地で舌鼓を打っていた。

ナユタと琉雅は、味わっているのかどうか、とにかくそれはそれは豪快な食べっぷりだった。

誰もが思いがけない仁の訪れと、豊かな大地と自分たちが育んだ上質な食材に、心から感謝し、深い喜びを味わっていた。

「ここはボーダレス・トライブ。鼓動と鼓動、思考と思考の合間の静かな瞬間に存在する世界。それぞれが生まれ持った才能を開花させ、誰もが唯一無二の不可欠な存在であること、生まれてきた意義や喜び、居場所を思い出し、そのことをより多くの人々に伝え広める仲間たちの集う場所。仁、あなたは私たちのトライブに深い喜びを齎してくれたわ。そして今、あなた自身も生きる喜びを味わっているはずよ。」

仁は胸に熱く込み上げるものを感じて感動していた。

「ここに来て僕は人を喜ばせる喜びを思い出したよ。僕はただ人生の終わりに向かって生きていたんじゃない。僕を必要とする居場所があることも、人々に喜びを齎す才能も、それが何よりも深い充足感を与えてくれるものであることも、すべては僕の中にずっとあったんだ。社会の流れの中でそれを見失っていただけだったんだ。」

大らかな自然と温かみのある人々、力強い大地の恵みは、仁に生きる喜びが決して個人的な成功や富だけにあるのではなく、誰かや何かの雄姿を目指すのでもなく、ただ、自分の中にあるもので他人を助け、人生の共同体験を分かち合うことにあることを思い出させた。そして仁はもう二度とこのことを忘れることのないように心に深く刻み込んだ。

その後もトライブにはさまざまな人が流れ着いた。

子どもたちをまだ幼い頃から終わりのない比較競争に巻き込む社会に疑問を持ち、真に生きるために必要な教育について思い巡らせ始めた者、次から次へと新たな物を買い求めるように急き立てるしつこくてうるさい宣伝広告や物質主義、消費主義に疲れ果てた者、日々消耗されては減少し続ける自然や環境の悪化に強い危機感を抱いている者、生きる意味やもっと大きなつながりを感じ始め、望芽のように別の価値観による社会を無意識に求めている者、もっと自由に芸術や創造性を発揮して富に囚われることなく人々を喜ばせたい者、疲弊した心身の癒しを求めて色鮮やかで豊かな自然が溢れるトライブに引き寄せられる者、権力に忖度せずに、純粋に科学や宇宙の真理を追求し、多くの人々の役に立つ研究に没頭したい者などが集まってきた。

「誰もが皆、誰かの喜びとなり、救いとなり、それぞれの才能によって互いに助け合い、豊かさを分かち合い、互いの幸福を喜び合い、争いや奪い合いのない安寧幸福な世界で共存共栄することを望む一つの大きな大家族だという共通のビジョンを持っているのです。それぞれの差異は多様性を生み出し、人々の人間性をより豊かにするもの。文化や人種、宗教、イデオロギー、伝統は、無闇に残酷に人を傷つけるようなものでない限り、自由であり尊重されるべきで、さまざまな試練や荒波を乗り越える過程でそれぞれが移り住んで発展しただけのことなのです。すべては元々一つであり、すべてはつながっている。これまでの人生の中で幾度となく目を覆いたくなるような残酷の限りを尽くしてきたとしても、現段階の地球はそもそも生きるために他の生命を糧とする、残酷な世界なのです。そうした世界から逸脱するためにも、ただ行いを悔い改めるだけでなく、その学びや気付きを魂や肉体を形成する素粒子に深く刻み込むことです。それは地球的集合意識の中ですべてのつながりの中に共有され、大いなる力となるのです。しかし、まだ目覚めが浅い地球ではそのような高尚な意識を常に保つことはできません。いつまでも古い体制にしがみついて、己の富を追い求める者がその差異を誇張し、人々の競争心や敵対心を煽り続けている。そうした心無い人たちが人々の心をますます貧しくさせるような社会では、悲しみや憎しみや苦しみ、恐怖、不安は容赦なくその隙間に入り込んでくるでしょう。でも明るい太陽の下で周りを見渡してみて。影は明るいところよりもずっと少ないわ。外側ばかりに目を向けていると誰かや何かと自分を比べてしまう。でも、答えはいつも内側にある。誰もが汚染された世界に瞳のレンズを曇らされて、忙しさに追い込まれて、大いなる宇宙の真理や光明なビジョンを見失っているだけなのよ。だから、一時は闇の心に傾くことがあったとしても、できる時にはできる範囲で慈愛と善意の心を分かち合い、広げていきましょう。」

その場にいる誰もが、深淵な宇宙の代弁者のようなサライの美しく和やかな声に耳を傾け、心の奥底に響き渡る言葉一つ一つに深く共感していた。

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