vol.1 空即是色

相馬晴人(十四歳)は小学校五年生の頃からほとんど学校に行っていない。
友だちと遊ぶのは好きだったし、楽しいこともあった。
でも、そこには馴染めない何か、微妙な疎外感があった。

初めのうち、どこにでもいるような平凡な母親の凛子はまさか我が子が不登校になるなんてと狼狽えた。社会の当たり前を鵜呑みにして生きてきた母は、学校教育という過程を経ずに社会に出る術を知らなかったし、学校へ行かないなどという選択肢を思い描いたことがなかったのだ。

晴人の父は事業に忙しく、家庭を顧みない人だった。
凛子は周りに相談できる相手がいなかった。
体裁ばかり気にする母親は、親としての無能さを明かすようで気が進まなかったのだろう。
インターネットや匿名のSNSで情報を集めていたが、
どうして?と原因を探り、しつこく理由を問い詰めてはいけないとか、
不登校は長期化すると復学が難しくなるとか、甘えだとか、
心療内科への受診を勧めるものや、進路や就職など将来への不安を煽るようなものばかりだった。

凛子は自分を責め、晴人を追い込み、他人を妬み、
理解してもらえない苦しみや孤立に嘆き、
怒り、干渉、罵り、放置、宥めすかし、疲弊、
イライラ、恐怖、痛み、悲しみ、憎しみ、
あらゆるネガティブな感情のループに陥っていた。

睡眠時間や食事の栄養バランスにはこれまで以上に気を回し、
晴人の表情や様子にこれまで以上に気を配っていたが、状況は変わらなかった。
凛子は晴人を車で学校まで送り届けたり、迎えに行ったり、学校とのこまめな連携を心がけ、
スクールカウンセラーの予約、心療内科の受診など、あの手この手で何とか学校に行かせようとした。

祖父母の言動や同級生の親たちの好奇の目に居たたまれない母の姿や、家庭訪問に来たり電話をかけてきては何とか学校に来させようとする担任たちの必死さを目の当たりにするたびに、晴人は寒々とした感情を覚えた。

「どうして学校に行かなきゃいけないの?」

と、晴人は一度だけ母に訊ねたことがあった。

「どうして行きたくないの?みんながみんな好きで行ってるわけじゃないよ。そういう決まりなの。義務なんだよ。将来幸せに生きるためなんだよ。今学校に行かないと、後で大変なことになるよ。学校にいかなければちゃんとした仕事に就くこともできないし、お金も稼げない。それでどうやって生きていこうっていうの?」

晴人はこれまで面と向かってじっくりと本音を話したり、心が通じ合ったような記憶もほとんどなかった母に理解してもらえるとも思えず、自分でもなぜ朝起き上がれないのか、どうして登校途中で引き返してきてしまったのか、うまく説明できるとも思えなかった。

晴人は本当は年に一回や二回の定例行事のような家族旅行や、入るだけで高い入場料を取られるようなテーマパークなんかよりも、近所の公園で遊んだり、一緒にゲームをしたり、もっと話しを聞いてほしかった。しかし現実は、家族という体裁は整っていても、心のつながりや温かみを感じることのできない冷え冷えとした、単なる血のつながった関係でしかなかった。

友だちの家も、だいたい同じ様子のようだった。

幼馴染の九条葵のところは由緒ある家柄らしく、幼い頃からいわゆる英才教育を受けていた。二つ上の出来の良い兄、一茶と比較されて育ち、葵も負けず劣らず優秀ではあったが、何でもかんでもとにかく一番への執着心が強く、いつも周りにさりげなくマウントを取っていた。自信満々でいつも強気だったが、時々情緒不安定な様子が垣間見られた。

氷上颯太の家は親の都合で生活が一変したためか、着ている服や、カバン、文房具などの持ち物をクラスの奴らに度々からかわれていて、事あるごとに自分の境遇を憐れんでいるかのように、やや自虐的に話した。それでも、周りの空気を読むのに長け、上下関係に敏感で、人に取り入るのが得意で立ち回りが上手だったので、イジメのターゲットとなるようなことはなかった。

晴人は小さい頃はよく二人と遊んでいたが、どこの親も毎日仕事に追われ、時間に追われ、日々の生活に忙しく、子どもがそれなりに勉強や運動ができて、周りに馴染み、手がかからない良い子でいれば安心し、それ以上の深い関心を寄せようとはしなかった。どこの親も社会の風習や周囲の流れに乗るように、子どもたちを塾や習い事に通わせるようになった。子どもは無関心な親に少しでも関心を寄せてもらおうと良い子を装い、誰もが無意識のうちにただ周囲に溶け込むように振る舞っていた。どこの親も、それに倣っている子どもたちも、誰がどの子の親で誰がどこの子どもなのか、晴人はだんだん分からなくなった。晴人のように、学校に行かず、親にも周りにも忖度しない選択をした者は外れ者であり、相容れない存在であり、ほとんどの人が見て見ぬフリ、気付かぬフリをするようになった。誰も目が笑っていないのに取って付けたような薄ら笑いを浮かべて周りに合わせ、人の目から逃れると険しい表情をしていた。晴人は次第に誰が誰だか見分けがつかなくなっていった。

晴人もそれまで自分勝手な振る舞いで他人を傷つけるようなことはしてこなかった。どちらかといえば良い子の部類で、楽しい時にはみんなと一緒に笑い、学校も塾も、家の中でも、それなりに空気を読んで過ごしてきた。友だちと遊ぶことが嫌いなわけではなかったし、鬼ごっこやドッジボールがしたい時には仲間に加わることもあった。

でも、気持ちが向かない時には決して輪に入ることはなかった。
晴人にとって一人でいることは苦ではなかった。自分の考えが周りと同じでなくても全く気にならなかったし、分かってもらいたいとも、干渉しようとも思わなかった。

しかし学年が上がるごとに少しずつ、教室内の不自然な雰囲気や違和感を感じるようになり、どうしようもない怒りや不満の渦巻く空気感に息苦しさを感じるようになった。他人といると居心地が悪くて疲れるようになり、だんだんと図書室などで一人で過ごすことが増えていったのだった。

帰宅後は、母が若い頃によく聴いていたというビートルズの音楽を気に入って、誰もいない家で一人でよく聴いていた。

「僕たちは、偏執狂者たちによって、偏執狂者の目的を成就するために支配されている。」

ジョン・レノンの遺した言葉は、よく分からないながらも晴人の心の隅に刻まれていた。

また、晴人は幼少期からアレルギーの治療薬や吸入薬を何年間も服用し続けていた。薬のおかげで発作が治まっているというが、病院では毎回同じ薬を処方される。いつになったら治るのか?いつまで薬を飲み続けなければならないのか?と医者に尋ねてみても、

「これは、しばらく続けないといけないお薬なんだよ。」

という答えが返ってくるだけだった。

なぜ毎日起きたくもない時間に起きて、週5日も学校に行かなければいけないのか?
なぜ興味も関心もないことを毎日何時間も学ばなければいけないのか?
なぜ先生が絶対的に偉く、言うことを聞かなければならないのか?
なぜ暗記大会(勉強)の優劣で人の価値が決まっていくのか?
なぜ多数決で何でも決められるのか?
なぜやりたくないことを我慢して最後までやることが美徳とされているのか?
なぜ成績の良い学校にいって給料の良い仕事に就いて値段の高い家や車を持てば幸せとされているのか?
なぜ効いているのかどうかもよく分からない薬をいつまでも飲み続けなければいけないのか?

おかしい、
変だ
狂ってる、
おかしい。

僕たちは何のために生きているんだろう?
ある歌詞では幸せになるためって謳われていた。
幸せって?幸福ってどういうこと?
良い学校、お金のたくさんもらえる仕事、高級品を身につけて、高価なものを手に入れて、人よりも良い暮らしをすることが幸せだと本当にみんなそう思っているんだろうか?
それじゃあきっと心の底では周りは敵で、本当に心を許すことなんてできないだろうし、お金だって高い家や車だって、いつ手に入れたものを失うかもしれないっていう恐怖に怯えて暮らさなければならない。それが本当に幸せなの?

しかし、晴人の周りには本当の答えを知る人は誰もいないようだった。
晴人は次第に自分の世界に篭るようになった。ネット上や読書に答えを求めた。
ある日、終戦時のアメリカ大統領だったトルーマンが、

「猿(日本人)を『虚偽の自由』という名の檻で、我々が飼うのだ。方法は、彼らに多少の贅沢さと便利さを与えるだけで良い。そしてスポーツ、スクリーン、セックス(3S)を解放させる。これで、真実から目を背けさせることができる。猿は、我々の家畜だからだ。家畜が主人である我々のために貢献するのは、当然のことである。そのために、我々の財産でもある家畜の肉体は長寿にさせなければならない。(化学物質などで)病気にさせて、しかも生かし続けるのだ。これによって、我々は収穫を得続けるだろう。これは、勝戦国の権限でもある。」

と語っていたというのを目にした。晴人には初めはこれもよく意味が分からなかったが、
何故かとても嫌な気持ちがして、ジョン・レノンの言葉とともに心の奥に刻まれた。
そして事あるごとに、何度も晴人の頭の中を行き来したのだった。

確かに日本人の寿命は伸びているけれど、新しい病気も次々と増えている。そして、それらの病気の治療薬も次々と開発され、人々が体に入れる薬は相当な量になっている。以前祖父が何種類もの薬を毎食後に服用していたのを見たことがあった。あれから何年も経っている。定期的に検査を受け、時には手術を受けたこともあったが、祖父が以前よりも元気になっているようにはまったく見えなかったし、幸福を感じているようにも、生き生きとした生命力も感じられなかった。寿命が伸びているといっても、晴人にはそれはとても健康的なものとは思えなかった。

何もかもが問題をすり替えたり、ずらされたり、うまく誤魔化されているようで、何もかもがぼやけて色褪せて見えた。何が本当で何が作り物なのか、多くの大人でさえも見分けがついていないし、よく分かっていない。あるようでない。そこにはたくさんのものが見えていても、それは単に人が虚像を認識するための集合体でしかない。そもそも誰も何かを見ようとか、考えようとか、人生を楽しんでいるとか、楽しもうとしているようにも見えなかった。すべてが空虚に感じられた。

晴人は大人たちのそうした姿を目の当たりにして、人生に何も期待できずにいた。

「僕たちは、偏執狂者たちによって、偏執狂者の目的を成就するために支配されている。」

というジョン・レノンの言葉は何度も晴人の頭の中を反芻した。

オンラインの友達は二十歳になったら死ぬと言っていた。
晴人は賛成も反対もできなかった。賛成するのも反対するのも無責任だと思った。
何も押し付けることはできないし、したくなかった。
自由だし、好きにすればいいと・・・・

晴人の心の中は、何かしなければいけないと感じる気持ちと、何もかもがどうでも良いと感じる気持ちがせめぎ合っていた。この世界の人類は狂っている。間違った方向に向かっている。何故だか晴人はそう直感していた。違和感しかない居心地の悪い世界で、晴人はどこにも居場所を感じられなかった。

それぞれの立場に立ってみれば、それぞれの気持ちは分からなくもない。
晴人には許す、許さないとは別のところで、すべてを受容しようとする不思議な力があった。
一方に偏れば自然とバランスを整えるように別の視点で、別の角度で物事が見えてくるような。それは晴人の成長と共に何か、もっと大きな抗えない力を全方位に引き寄せているようで、このところの晴人はいつも頭の奥の方がズキズキと、心のどこかがチクチクと痛かった。

また、晴人の周りではいつからか時折、時系列や記憶が一致しない不可解な時間と空間の干渉が生じていたが、晴人にはそれを自分自身に対してもうまく言語化することができなかった。それは意図せず突如訪れる。夢の中の出来事のようでもあり、もっとずっと遥か昔に遡った記憶のようであり、 それでいて現実を感じられる、不思議な感覚だった。晴人はそれを現実夢幻と呼んでいた。

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