Vol.6 起源転生

初めはとても驚いた。そして思い出した。現実夢幻の世界と同じようにそれぞれにとって必要な内容が、テレパシーのようなもので直接頭の中に送られてくるのだ。それはこれまでの学校の勉強のように教師の言うままにただノートに書き取ったり暗記するようなものじゃなくて、自然と頭の中から心の中にすんなりと入ってくる。そしてそれは、これまで頭の中で何となく分かっているつもりになっていた生きるために必要なことや大切なことのほとんどはまるで頓珍漢で、とても浅はかなものだったことを思い知るような内容だった。

これまでに晴人が現実夢幻や母の話などさまざまな形で感じ取ってきた、生命の起源、人間は魂と肉体と感情の融合体であること、それぞれの存在の意図、地球的集合意識や宇宙的集合意識、大いなるすべてとのつながりなどは、どれも初めは俄には信じられなかったし、そんな証拠がどこにあるのだろうと思うものだったが、逆に、それが偽りであるという証拠を見つけることもできなかった。なぜなら、科学や技術は飛躍的な進歩を遂げたといっても、大いなる宇宙単位で見れば、地球上で分かっていることは全体の五%にも満たないのだから。そしてそれらは後になればなるほど、そうである以外に説明がつかないと思えるような内容だった。

それは、穏やかで落ち着きを誘う国主琉雅の声によって頭よりも、心に響き渡った。

"受け入れるのも受け入れないのも君たちの自由だ。誰にも何も強制されない。理解できず、受け入れられなければ、受け入れずただ黙って忘れ去れば良い。これはそれぞれの叡智の獲得度合いや成長度合いによってそれぞれが識別するものであり、同調を求める悪口や偏見に満ちた意見によって他を惑わす行いも、己を信じられず他の意見に振り回されるのも、己の魂を貶めることになる。僕たちの語ることはパズルのピースに過ぎない。正しい全体像を完成させるかどうかは君たち次第だ。誰のどんな話でも鵜呑みにしてはいけない。

魂はもとを辿れば一つの大いなる存在であり、すべてはつながっている。意思と意志のエネルギーの大部分を占める人類としての魂の成長は、宇宙全体の素粒子レベルの相対的な底上げを促す。魂と素粒子は光と闇を彷徨いながらさまざまな生涯を繰り返し、複雑かつ幅広い感情の揺らぎを経験することによってより豊かなものとなっていく。

それぞれの選択によって光と闇を経験する中で、ほんの少しの闇を知るだけで一人一人の魂が自分に対しても他に対しても潜在的に慈愛や善意など光の感情を選択する度合いが大きくなればなるほど、宇宙全体が安寧幸福に包まれるというビジョンを取り戻す者もいる。それぞれが多種多様な差異を認め合って団結する美しさや素晴らしさや心地良さを思い出し、それぞれの才能を活かして助け合い、支え合い、分かち合い、高め合い、争いや奪い合いのない安寧幸福の世界を創造することのできる高次元の存在であり、深淵な慈愛によって大家族のように結ばれていること、高い精神性によって広大な宇宙の真理を俯瞰できるようになり、それぞれが唯一無二の尊い存在であることを思い出すことによって、より豊かで、より高次元の存在となるのだという共通のビジョンを取り戻すのだ。

しかし、こうした叡智の獲得が遅れるほど起源から受け継がれてきた共通のビジョンを見失っていく。地球では人々を金によって支配し、不要な情報や膨大なデータを詰め込むことに忙しくさせ、より多くの金や物質を追い求める生活を強いることによって忘却のベールを張り巡らせている。この忘却のベールによってこれまで一人一人の魂に刻み込まれた経験や記憶が薄れているのだ。刺激的な状況や残虐な出来事の報道、自動的な搾取のシステムの確立、意識に作用する周波数の濫用、生命を無視した暴政、行き過ぎた利権の追求、争い奪い合うためのテクノロジーの進歩が個人の内省を阻み、進化や発展を著しく遅らせている。しかし、すべての争いが無用なのではない。行き過ぎた悪や闇には立ち向かわなければならないし、進化や発展のための奪い合いや破壊も存在する。

ここで琉雅は、ゆっくりと静かに深いため息をついて、再び話し始めた。

現在の地球では音や振動や周波数、電磁波なども巧みに利用されている。ニコラ・テスラは『宇宙の秘密を探究したいなら、エネルギーや周波数、振動の視点から考えることだ』という言葉を残しており、アルバート・アインシュタインは『私たちが問題と考えているのは、その振動が知覚できるほど低下しているエネルギーのこと。他に問題などない』という発言によってテスラに同意している。今では万物が異なる周波数で振動するエネルギーによって構成されていることは周知の事実であり、周波数が水や空気、砂のような特定の媒体を通じてそれ自体の振動を変化させるというのは『サイマティクスの科学』や『水の記憶』などといった多くの実験で実証されている。特定の周波数は人々の恐怖や攻撃性を誘発し、心よりも脳に作用する周波数で、物質主義やエゴを強化する歌詞がのせられた音楽は人々を偏った方向に誘導した。こうしたエネルギーや周波数や振動といった観点に誰がいったいどうやって辿り着いたのだろう?

ある時期、地球のテクノロジーは飛躍的に進歩した。しかし、それらすべてが人々に明かされることはなく、裏のさまざまな思惑によって金や権力を介して進められている。テクノロジーは同じ地球人の互いの安寧幸福や共存共栄のためではなく、いつしかごく一部の者に金や権力を集約する道具の一つとなっている。どこからともなく現れた知識によって支配者は巨大な金と権力を手に入れ、政治、経済、金融、エネルギー産業など、人々の生命の存続に関わるものを、時には人智を超えるような狡猾さや残虐性を見せながら掌握していった。そこには何らかの存在の巧妙な計画による手引きがあったんだ。闇も光も、三次元より四次元、四次元より五次元と、より深淵になっていく。光はより光明に、闇の強欲、矜持、比較、競争、奪い合いはより厳しくなっていく。ある日、地球よりもテクノロジーが高度に発達した生命体が元いた惑星を追われ、自分たちが居心地良く繁栄できる世界を探して彷徨い、まだ次元の低い地球に降り立ったのだ。

太古の地球人は無意識に、ただ生存するために他の生命を奪って生き延びた。やがて食糧や資源のために大地を奪い合い、領土の広さによって優劣を争い、金や武力によって力関係を誇示し、上下関係が出来上がった。奪い合いや闘争の中で人々は心身を疲弊し、ビジョンや宇宙の真理を見失っていった。個人の生存競争に始まり、生存者の集まりが種族や民族となり、そうした集団が棲まう土地が国となり、個人の意思は統率者によってまとめられるようになった。多種多様な思想を持つさまざまな人々が増える中で、それぞれの思惑や自己中心的な執着が渦巻き、闇はより深い闇を引き寄せて、やがて統率者が暴走して支配者となり、国を私物化し始めた。支配者の生命エネルギーは強欲が慈愛や善意を上回り、一国では満たされず他国にまで手を伸ばした。やがて、慈愛や善意を失った生命エネルギーはただ満たされない欲を満たすために増幅し、強欲に集中する凄まじいまでのエネルギーは、それに見合う強大な求心力で周りを巻き込んでいった。自ら留まることも、誰にも留めることもできず、どれだけ追い求めても決して満たされることのない強欲の闇に吸い寄せられていく。行き着く先は深淵の闇であることは明らかだが、誰にも留められないまま加速度的に突き進んでいき、幾度となく自滅の道を辿ってきた。

そんな闇の愚かさが闊歩する世界を繰り返す中で、人類は真理に目覚めて叡智を獲得し始める者と、そうでない者たちに分岐していった。初期の頃には互いの生存権や子孫繁栄を懸けた原始的な争いだったが、やがて多くの人々が慈愛や善意に基づく賢明さを取り戻して平安な暮らしを望むようになると、闇側もより狡猾になり、科学や技術、理論などを利用し始めた。いつまでも初期の集権的な略奪や搾取という古いシステムにしがみつき、より大きく、より広がるように、より完璧に、より住みやすくなるようにという人類に元々内在している意識と、手に入れた金や権力、自分たちの血のつながりや子孫繁栄といった個人的な執着が融合し、自分たちのさらなる富のためにテクノロジーを発展させていった。人々から少しでも多く搾取するために金融や医療を生み出し、集めた金や権力によって政治、経済、教育、法律などを次々と陥落し、人々に暗澹たる闇を及ぼしていった。

テクノロジーの発展は一見、人々の暮らしを豊かで便利なものにしたと思われた。文明が発達して人口はどんどん増えていき、あらゆる地域で都市が乱立した。人々は簡便さや賑やかさ、溢れる娯楽に溺れ、豊かさを錯覚して思考を深められなくなって堕落した。それぞれの統率者に放任し、統率者が自分の富や権力のために都市をより大きく発展させるために木々を伐採し、自然を汚染し、資源を奪い合い、生き物を乱獲していくのにも無関心になった。人口が増えれば増えるほど緑地が減って大地は砂漠化し、人々は簡便で心地よく暮らせる地域に密集していった。

人々が意識を向ける対象は狭小となり、目に見えるもの、形あるものにしか価値も信頼もおけなくなり、自分や自分たちさえ良ければそれで良いという思想が基軸となった。何世代にも渡って受け継がれてきた強大な闇の力は、人類のそのような感覚を利用し、人々が五感に依存して目に見えるものや形あるものばかりに執着するような社会構造を作り込んできた。目に見えるものや形ある分かりやすいものには人を惑わして目を逸らさせるベールが幾重にも重ねられている。周到なマジックのように簡単に騙される者もあれば、少しだけ深みを探り始めた程度では簡単に振り回されてしまう。直感や第三の目と言われる第六感の力を失い、目に見えない力や存在を恐れ、より多くの目に見える物質的な物に囲まれることこそが、我が身を守り、成功という幸福を手にすることができるのだと錯覚させられた。ルシファーによる偽の光に照らされて輝いているものではなく、自らが光を放つものに目を向けなければならないはずが部分ばかりに囚われて全体を俯瞰する能力が損なわれてしまっている。なぜ簡単に騙されてしまうのだろうと思うような事象であっても、受け取る準備ができていない情報は脳の検閲機能によって自動的に消去されてしまう。さまざまな革命や制度によって元々誰のものでもない大地や資源を君主や貴族が所有するようになり、富める者はますます富み、持たざる者は貧しくなり、格差は広がるばかりである。こうした歴史的不平等や風評、教育が個人の反骨精神を煽り、物質的な豊かさを求めて自由競争はますます激化している。

支配者に追従して個人の富や欲を満たそうとする者たちは、慈愛や善意によって人々の幸福のために新たなものを生み出すのではなく、低質であろうとどれほど自然を汚染し資源を浪費しようとも躊躇せず、不必要なものの必要性を叫び広めては次々と新しいものを生み出し、人々に売り込み続けている。これまではローンで買うものと言えば家や車だった。しかし今では家電も家具も何でもかんでもクレジットカードのローンで購入するのが当たり前になり、それぞれの単価は上がっている。数年単位で買い替えのタイミングが設定されている家電は、昔と違って使いこなせないほどの機能が盛り込まれて不具合を起こしやすくなっている。他を顧みることなく強欲のために考え、行動する者が増えた結果、大地は荒廃し、自然は汚染され、処理の間に合わない産業廃棄物で溢れ返り、三次元の人々が認識でき得る資源は枯渇しつつある。そのような社会で人々は心身の疲弊を繰り返し、ようやくこの社会が安寧幸福には決して辿り着くことのない虚構であることに気付き始めている。

しかし、深淵な闇に呑み込まれ、金やあらゆる権力を手にした支配者によって、人々はすでに虚構の歯車として組み込まれており、彼らの支配下にある金や物質を追い求める以外に、生きる術はなく、人々がそこから抜け出すことは容易ではない。

宇宙の真理に気付き始めたところでどうすることもできない人々は、自分の無力さに打ちひしがれ、気力を無くし、考えることに疲れ果て、心の声に耳を傾けるのを止めた。次第に本心や本音に鈍感になり、目に見える形あるものや手に入れた金や財産に縛られ、自分と自分の身近な者の生活を守ることで何とか自尊心を保っていた。自分と自分の家族さえ無事に滞りなく暮らせていれば、後はどうでも良いかのように振る舞うようになり、他への無関心に拍車がかかっていった。

ほとんどの人間が、自分が何かしたところでどうせ何も変えることはできない。なるようにしかならない。無理、無駄。だったら物分かり良く、余計なことを考えず、地に足つけてコツコツ真面目に、従順にして、そこそこの暮らしをした方が賢いのであり、周りの目や、守らなければならないものに囲われて、他に選択肢などないと思い込んでいた。

誰もが違和感や恐怖や不安や怒りを感じながら、どうすることもできない諦観の中にいて、それでも心の奥底では誰かが何かを変えてどうにかしてくれることを願っている。しかし誰も、矢面に立とうとはしない。そうした存在がこれまでどんな目にあってきたか、どんな制裁を受けて見せしめにされてきたか、誰も敵わないほどの強大な闇の力をどれだけ見せつけられてきたかを誰もが知っていた。それに対抗できるような光の力を宿した存在が現れたなら、自分たちに火の粉が降りかからないように注意深く様子を窺おう。もしも光側が優勢であることが明らかとなれば、そちらに従おう。そう、あくまでも強い勢力に追従せざるを得ない、弱い受け身の存在として。どちらにせよ自己責任だということは分かっている。でも、やむを得ず従ったのだという体裁を整えられる状況であり続けたかった。誰かのせいと言える余剰を保っていたかった。結局、誰もが自分から行動を起こすことはせず、虚構の中で手に入れたあらゆるものへの執着を手放すこともできず、ただ、大勢に流されるという楽な道を選んでいるのだ。そのため、人々は周りの空気を読む能力ばかりが向上し、自分の内面の感情や直感、心の声に耳を傾ける力はどんどん衰えていったのだ。

そうした結果人々は労働と消費に追われている。コストと質の低下はますます物の短命を招き、表面上を綺麗に取り繕って体裁を整えたあらゆるものが簡単に手に入るために粗末にされ、新製品の宣伝は四六時中やかましい。新しいものにしか価値を見出せない人々によって物のサイクルは加速し、かつては美しく澄んでいた小川は産業廃棄物の残滓によって澱み、泥と絶望に塗れた正気のない広がりとなっている。コンクリートや高層ビルが次々と立ち並び、自然の色合いは影を潜め、目を楽しませ心の安らぎとなる豊かな緑や大地や美しい星空に癒され、解放され、自由を謳歌する時間もゆとりも奪われて人々は心身を疲弊している。

富を求めることが必ずしも悪いのではない。自己中心的な執着や目に見えるもの、形あるものなど物質的な側面に偏り過ぎていることが問題なのだ。宇宙全体で捉えれば物質への執着はとても次元の低い行いである。低い次元のままいくらテクノロジーを発展させても、それは支配者の富として集約され、略奪や搾取はますます激化し、いずれ最後の一人となるまで滅ぼし合うことになる。

こうした経緯を経て地球は次元上昇の時を迎えている。選択は変化であり、振動を引き起こす。地球人が増え、闇側の感情や思考、選択の方に大きく傾いてしまうと、宇宙全体への汚染や悪影響は無視できるレベルではなくなってしまうのだ。導かれるべき者を導くために高次から訪れた魂、世を漆黒の闇に染めようとする闇勢力、未だ眠りから目覚めない人々、地球人の行く末を見届けようと降り立った魂とで、地球は混沌としている。光輝燦然たる光は目覚めを望む人々をより光明に照らし、光の叡智を獲得して多くの魂が目覚める一方で、宇宙の法則に法って闇はより晦冥になり、人々を引きずり下ろそうと手段を選ばない狡猾さによって深い闇に呑まれる者もいる。大勢に流されるのではなく、個人の自由意志によってそれぞれが選択をしなければならない。大家族としてのつながりを思い出し、互いに尊重し合い、分かち合う精神性を取り戻すのか、決して満たされないとしても個人の強欲や富への執着を追い求めてより深淵な闇を極めようとするのか、ただ漂い、どちらの分極にも到達しないまま再び何処の世界に降り立つのかを。"

晴人とナユタとマナスは、涼やかな夕暮れの秋風に、まどろみから目を覚ました。三人とも琉雅の語りをそれぞれの中で咀嚼していた。

地球では現代人のほとんどが慈愛や善意など本来魂に備わっている力を失っている。だから高次の光の存在の声が聞こえなくなってしまっている。間違った方向に向かおうとする魂を救うために高次の存在がサインを送っても受け取る準備ができていなければ気付くことができない。それで金や物質主義に支配されたまま突き進んでしまうといつまでも不安や恐怖、矜持や強欲などの闇の感情に付き纏われ、有害な食事、安易で誤った選択によって心身を病んでしまうのだ。これは医療や薬などでは治すことができない。自分で身をもって感じ取り、気付いて考え方や行動を変えない限り決して治らない。

人は見たいものを見て聞きたい音を聞き、世の波を漂ってそれぞれの岸辺に辿り着く。
未知なるものは恐怖であり、見てみぬフリをして避ける。人間が最も偉大であるという驕りも無知の表れだ。学校教育や社会の風潮によって劣等感を植え付けられ、本来の生まれ持った才能を活かす機会も得られぬまま、誰もが自分に自信がなく他を信じることもできず、感情を非科学的で低次元なものとして扱い、データや科学的根拠などという限定的で曖昧なものにしか頼ることができない。支配者や権力者に追従しながらもまだかろうじて善良な心を持った者たちは、現代の科学や価値観がどれほど稚拙なものかに気付き始め、このままでは限界を迎えることを薄々感づいてはいるものの、もっと大きな何かを感じ取ることができないまま軌道修正できずにいる。そうした者たちを何とかもう一度思考停止のベールの中に引き戻そうと支配者は必死だ。しかし、すでに猶予は残されておらず、仕込みは相当雑になっていて、見る人から見たらまさしくあからさまな茶番なのだけど、それでも金や権力に騙されている人が未だに大勢いる。これは正直もう救いようがないのかもしれない。

晴人もナユタもマナスも絶望を感じずにはいられなかった。

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