校長先生との対話2

【校長先生との複数回の対話により見えてきたもの】

今、学校に行けている子どもたちにとっても闇深い問題があることに気づきました。

一昨日は三男と校長先生の三者面談でしたが、直前になって三男が行かないと言い出したので、私1人で行ってきました。

本当の現状を実際に体感しない限り事実は見えないし、琴線に触れることもできないし、ただの机上の空論に過ぎず、何の解決にもならないどころか、より悪影響を及ぼしかねない現実に、またしても思いをぶちまけてきました。

学校に行かない(行けない)子どもたち、そのお母さんたちの話を聞いていて感じるのは、みんな、学校に行った方がいいんだよね、本当は行かなくちゃいけないんだよねと思っているということ。制度うんぬん以前に、世の中にはそういう空気があるからです。

でも、休みが長期になればなるほど、勉強への不安、友だちの目などが気になり、足が向かなくなります。

学校に行ってさえいれば大丈夫・・・

子どもは勉強するのが仕事・・・

そんな風潮に追い詰められ、分かっていてもできない自分に苛立ち、劣等感を感じ、家族のちょっとした会話や行動さえも、責められているように感じてしまいます。

特に、変換期の現代の子どもたちは、

学校に行くのが当たり前、行きたくてもいけない人もいる(いた)、子どもは勉強するのが仕事だ!、国(お上)が決めた制度だ、ルールだ、義務だ、行かない(行けない、できない)のはただの甘えだ、育て方が悪い、環境が悪いという強い固定観念に縛られている祖父母世代と、

そのような思い込みや社会の中で育った子どもであり、中には何だかそれも少し違うかもしれないと違和感を感じ始めながら、日々の忙しさや制度、周りの同調圧力にかき消されてしまう親世代

に挟まれて、否定されている感覚にとても息苦しい思いを感じながら、自分を押し殺して生きています。

学校に行きながら、自分の感情に蓋をして日常を送っている子ども、自分の感情を見て見ぬふりをしている子ども、諦め、絶望し、日々自分をすり減らしながら生きている子どもも大勢います。

そういう子どもたちは、不登校の子どもたちを「ズルい」と思い、距離を取り、壁をつくり、疎遠になるため、いざ不登校の子どもが学校に行けるようになったとしても、一旦できたわだかまりに違和感や疎外感を感じて、すぐにまた行けなくなってしまいます。

学校に行っている子の親からすれば、不登校の子どもに感化されたくないし、自分の経験や制度、社会の風潮的に、子どもは学校に行くのが当たり前だし、勉強するのが仕事という認識は空気のようにその子どもにまとわりついています。

まだ幼い子どもたちには、親や自分の現実の影響は絶大なので仕方がないのかもしれません。

中には学校に行けない子のさまざまな葛藤を感じ取り、上手に受け入れて掬い上げてくれる子もいて、そのような子が身近にいる場合はとても救われますが、現実的にはまだまだ少数派です。

フリースクールに通えている子でも、なかなか学校に戻れない子もいます。

とにかく家の外に出て、家族以外の人と接することが目的ならば、フリースクールは良いかもしれません。

登校日数としてカウントされるとしても、フリースクールは高額なところも多いため経済的な負担も大きく、本音の部分で学校に戻りたい、学校に行きたいという子どもの解決には結びついていないのが現状です。

うちの子の学校には、不登校の子専用ではないけれども、新たな居場所を確保しようという取り組みで開設された特別教室があります。

常駐の教員1名と、手の空いている教員が自主的に足を運ぶ解放されているその教室は、コロナの影響もあり、隔離されたおひとりさまスペースと数名が過ごせる狭いゾーンに分離されています。

それぞれが持参した自習道具で勉強したり、図書館で借りた本を読むこともできます。

もちろん、子どもたちの新しい居場所にはなりうるかもしれません。

でも、これで不登校を脱することはきっとできません。子どもたちが望むのは隔離された特別感などではありません。

不登校や引きこもりの子は、まずコミュニケーションや対話が難しく、挨拶をしてもなかなか返せない子も多いとのことで、

せっかく特別教室に自分の居場所を見つけて学校に足が向くようになったのに、変に刺激してまた来れなくなってしまわないように、大人も子どもも腫れ物に触るようにビクビク接しているような状態です。

結局、見えない壁はどんどん高く、分厚くなっているのです。

多くの親子が、家庭の中で親vs子だけで対峙し、お互いに苦しみ合い、どんどん自分を疲弊し、磨耗しています。不安や苦しみでいっぱいになればなるほど、私たちのIQは下がり、視野は狭まり、思考を深めることができなくなります。

子どもは親以外の大人と接することから学ぶことも、同年代の子どもとの関わりの中で育まれるものが多く、必要であることも事実です。親も子どもから少し距離を置いて視野を広げる必要があります。

各地域に拠点としてあり、一方的ではなく、双方向でリアルに関わることのできる学校だからこそでできることがもっとあるのではないかと、いろいろ提案してみても、結局明るい回答は得られませんでした。

公立の学校は、市や教育委員会などを通さなければ何もできません。『地域みんなで子どもを育てよう』そんなスローガンを掲げていても、実際には何かあった時の責任がまず真っ先に頭に浮かぶ窮屈な世界です。

運動会や体育大会で『競争』や『順位づけ』がなくなり、通知表も成績だけでない絶対評価になってきています。

でも、義務教育の最終ゴールが高校受験である以上、同級生がライバルであることに変わりはなく、受験する学校によっては倍率の絡みもあり、場合によってはその後も続く関係性やつながりに影響があります。

競争することに慣れていないということは、悔しさや優しさを育むことも、勝ち負けで深まる絆もないということ。

競争に勝つために必死になる子もいればならない子もいるけれど、必死な姿勢は伝わるし、どれぐらいやったらいいかの目安にもなります。そのうちに、誰か相手にではなく、自分自身との勝負をするようになるのです。

かけっこが苦手な子に、得意な子がコツを教えてあげたり、
算数が苦手な子を、得意な子が見てあげたり、
そんな機会も奪われている気がします。

それぞれが得意なことを伸ばして、お互いに助け合い、信頼し合い、違いを尊重し合い、高め合っていくためには教育が変わらなければいけません。

でも、今の先生方も平均的に満遍なく成績を収めてきた人たちだし、教育が変わるのには時間がかかります。

これは各家庭から変革していくことができる大きな課題なのかもしれません。

本当はどこで学ぶかは関係なく、何を学び、何を身につけるかが重要です。

でも、本当はみんなが同じように平均的にすべてをできるようになる必要はありませんよね。

楽しいからもってやってみたい

できた、嬉しいからもっとやる

なんかこれ得意かも!と自信につながる

 

本当はそれをどんどん伸ばしていけばいいのに、

 

うわ、これ嫌い

点数ヤバい

テストのために仕方なくやる

 

これで大人になっても身についているものってほとんどありません。

でも、苦手なもののせいで自信を喪失し、劣等感に苛まれ、自分はこんなものと勝手にランク付けして、やる前から勝手にできることとできないことを区切り、自分の居心地の良い安全地帯に留まってしまうことだけが習慣になってしまいます。

今、学校に行けている子どもにとっても、大きな問題が潜んでいることに目を向けて、上辺だけの綺麗事などではなく、新たな志しや同調意識、固定観念でつながり、真にみんなで次世代を担う子どもたちを育てていかなければならないことを強く感じました。

私たち母親は、例外なく、命懸けで子どもを世に産み出しているのだから、命懸けでまもり、生き抜ける生命力を培わなければなりません。

今子どもたちは何を望んでいて、何ができるのか?

どこで学ぶかではなく、何を学び、何を身につけるか?

一番大事なことなのに、一番大事にされていない。

現行の学校制度の良し悪し以前に、子どもたちの貴重な成長期の9年間の過ごし方、本当に必要なことを学び身につける場であってほしい。

高校受験や大学受験をゴールとするものではなく、

生命を生き抜く叡智を養い、

自分の強みを見出し、

一人一人の個性を尊重し、

信頼し合い、

助け合い、

高め合う

そんな力を身につける場であってほしい。

一旦狭めたゴールに向けて篩に掛け、劣等感を植え付けるのは、現代社会ではよほどこれまで満たされて育ち、不屈の精神を持ち合わせていない限り、這い上がるのは厳しく、どうせ私はこんなものと勝手に自分に釣り合うレベルを決めつけて生きることになります。

でも、これからの社会では、そもそも用意されたそれぞれのレベルの箱がどんどん減っていきます。

狭き門を目掛けては劣等感に苛まれているうちに、人生は終わってしまいます。

本当の学習は、混乱から始まります。

今の現実は、人間が生きる上で必要な生きがい、困っている人を助ける、貢献する気持ちを育み、次のステージに進む良い機会なのです。

]]>

コメント

タイトルとURLをコピーしました